【掌中の珠 最終章 6】   



孟徳と玄徳の会合は、次の日、川を越えた魏側の山のふもとで行われた。
雨は上がり陽がさす温かい日だったが、すこし離れたところを流れる川は相変わらず増水したままでごうごうと湿った音が会談の場にまで聞こえてくる。
大きな天幕をはり頑丈な机を挟んで置かれた椅子に、玄徳は通された。向かい側には孟徳が座っている。
「昨日と変わりいい天気でなによりですな」
玄徳はそういいながら孟徳の顔を表情を注意深く観察した。
「いや、まったく」
孟徳はいつものくったくのない笑顔で答えたが、玄徳の眼は孟徳の目の奥の疲労と暗さをとらえていた。
さてどうするか。ここで花の話を出さないのも不自然だ。
「この度はこのような辺境まで足を運んでいただきまことに恐れ入ります。都ではさぞ花がさみしがっていることでしょう」
玄徳も邪気のない笑顔でそういうと、珍しく孟徳の笑顔が一瞬こわばった。決して弱みを見せない彼にしては本当に珍しいことだ。どうやら孟徳の方も今回のことは相当堪えているらしい。と、いうことは芙蓉が想像していたような、孟徳が花をいじめぬきあのようなことになったというわけではなさそうだ。
玄徳は少しほっとした。前回孟徳を紹介してくれた輝くような笑顔の花。彼女の気持ちまで踏みにじられたわけではないようで安心したのだ。
「そうだな、だがこっちはこっちで収めておかねば後顧の憂いが残る」
「いや、まさにおっしゃる通りです」
花の話を避けた孟徳に玄徳は乗ることにした。
「隣国とはいえここまで近い場所でこのような騒ぎ。私にもなにかできたのではないかと悔やんでいるのですよ」
実際今回焼身自殺した牧からは生前何通も文をもらっていた。漢王朝の正当性と孟徳の不忠をただす内容だ。玄徳としては応えるつもりはなくスルーしていたのだがそれもまずかったのかもしれない。返事をし、今はまだその時ではないしここでその牧一人が謀反の旗をあげてもなにもかわらないと説けばよかったのかもしれない。娘が孟徳のもとに人質に出されたと聞いている。娘はどうなったのか。父親がこの状態ならすでに許都で首を切られているだろうが…
「いや玄徳殿にはこちらこを迷惑をかけたと謝りたい。そちらには迷惑をかけないよう後始末をせめてしたいと自らここまで来たのだ。安心して蜀に帰られるがよい。魏の内輪の話でここまで御足労いただいて申し訳なかった」
「いやいや、孟徳殿に比べれば大した距離ではないのでお気になさらず。孟徳殿こそ早く許都に帰られたいのでは?花もまっていることでしょうし」
もう一度ちくっと刺しつつ早くこの地から孟徳が去ってほしい旨を匂わせてみる。通常の孟徳なら寵姫に待たれていることをのろけ、玄徳たちがこの地を去る時期を探り、同じころに去るだろうと想像していたのだが、今日の孟徳の反応は違った。
「いや、しばらくこの地に滞在する予定だ。牧のいた屋敷の後始末をしなくては」
きっぱりとした冷たい声。異論は許さないという為政者の声だった。そして表情には隠せない焦りといら立ちが見える。
花を探すのだろう、とすぐに想像はついた。あの寒さと増水で流されたのだ。もう命はないと覚悟はしているのだろうが、思いきれずせめて遺体でもと思っているのか。
思わず花のことを伝えようと開いた玄徳の口は、彼女の足に結ばれていたという鎖を思い出し、閉じられた。
寝ていないのだろう、ギラギラと目だけが異様に光っている孟徳を気の毒に思いながらも、どうするのが正解かわからない。しかし孟徳がしばらくここにとどまるのなら時間の猶予はまだある。しばらくは場の動きにまかせて判断は後回しにすることとしよう。
玄徳は立ち上がった。
「承知しました。ではせっかくの機会なので私もしばらくこの地に滞在しましょう。国境線についていくつかご相談もありますのでまた会合を持たせてください」
孟徳がここにいるにもかかわらずのんきに蜀の城に帰るわけにはいかない。それに花の移動は今は無理だ。
玄徳たちは皆馬で来ておりホロ付きの馬車などない。個別に輿で運ぼうと思えばできるが孟徳はどうせ密偵を玄徳陣営に放つだろうし探られると面倒だ。
いや、そもそも今移動に耐えられる体力は花にはないだろう。
出がけに見た花の真っ白な顔を思い出し、玄徳の表情は一瞬暗くなった。意識はまだ戻っていない。
川を挟んだ蜀側に張っている玄徳の陣を引き払わないと聞いて、孟徳は眉を寄せたが想定の範囲内だっただろう。花のことがなかったにしても孟徳がいるかぎり玄徳は去らない。それは孟徳の方も同じだった。どちらかが不在のうちに攻め込みこの辺りの地を平定されてしまうのは避けたい。
孟徳も立ち上がった。
「そうだな、また連絡をする」
「では」
お互いに笑顔で別れた。


玄徳が天幕に入ってきたときはちょうど、医師の手によって花に薬湯を飲ませているときだった。
「目が覚めたのか?」
医師、薬師、手伝いの近所の女性二人が花の寝台を取り囲み緊張したように医師の動きを見守っている。玄徳は小さい声で後ろからそれを眺めている芙蓉に聞いた。芙蓉は玄徳の声に驚いて振り向いた。
「玄徳様!お帰りなさい。いえ、花はまだ意識はないんですが、ああやるとちゃんと飲み込むんです。朝一度飲ませて、これが吞み込めるのなら回復するでしょうって医師が。身体もだいぶ温かくなってきたんですよ」
希望に顔を輝かせている芙蓉に、玄徳もほっとした。「そうか、それはよかった」
花は薬湯を飲み終わったようで、相変わらず目を閉じたままそっとまた寝台に寝かされた。
「孟徳殿との会合はどうだったんですか?花のこと何か言ってましたか?」
芙蓉の顔は孟徳への怒りで強張っていた。玄徳は視線を宙にさまよわせる。今は何を言っても芙蓉を刺激してしまいそうだ。
「いや、うまく話をかわされてしまった。ただ……通常の様子ではなかった。やはり花のことが堪えているんだろう」
芙蓉は「堪えるなんて…!」と吐き捨てるように言うと花の方を見る。「大事にしなかったご自分が悪いだけじゃないですか」
玄徳も花を見た。顔は相変わらず真っ白で、前の健康的な頬やくるくる変わる表情はかけらもない。
「ん?」
花のまつ毛が震えたように見えて玄徳は寝台に近づいた。芙蓉も慌てて駆け寄る。息をのんでいる二人の前で、花の瞼がゆっくりとあがる。
「花!」
「……ん…」
弱弱しいが確かに声を発した。声と言うよりはため息のようなかすかな音。ぼんやりと焦点のあっていない目を動かし、芙蓉と玄徳と目があった。「花!気が付いたの?」
「あ…」何か話そうとして花は苦しそうにする。「水だ!」玄徳が言うと、傍に居た女性があわてて吸い口を花の口に当てた。
皆が見守る中で花はゆっくりと一口、温かい薬湯を飲む。
「ふ、芙蓉、ちゃん。玄徳さん……私、あれ?ここ……」
「花!」
抱きつこうとする芙蓉を玄徳が慌てて止めた。



下流にある川が曲がっている箇所で、孟徳は岸の上から崖下で作業をしている兵士たちを見ていた。
昨夜の大雨で増量した川は大きな石や太い木を大量に押し流していた。川の曲がり口にそれらが重なりいまだに増水している川がうねるように堆積物を乗り越えている。
「丞相、ここは危険です。もう少し後ろに…」
兵隊長がしぶきをマントで避けて孟徳に言ったが孟徳は冷たくそちらを見ただけで返事はしなかった。「何か発見できたのか」
「は。流された馬の死体と馬車の一部と思われるのものを発見しました。そのほかは、流された食料が入っていたと思われる箱の一部くらいです」
これが動くとは信じられないくらい大きな岩。
何千年も生きてきた太さの木の幹。
あらゆるものが押し流され、こんなところに人間がいたら粉々になっているだろうということは誰の目にもあきらかっだった。
「本当に落ちたのか…」
崖のどこかにひっかかって川には落ちなかったのではないか。陽が上り周りが明るくなるとすぐに孟徳は花の馬車がずり落ちた崖へ人をやりくまなく探させた。そうだ、孟徳自身も止める元譲を振り切って川岸まで降りて探した。まだ降り続いていた雨が孟徳の高価な朱の絹を濡らし地面の泥が孟徳の脚を膝まで汚したが、花はいなかった。
孟徳は手を額にやると、頭の奥に響く頭痛を抑えるように額をつかんだ。ギリギリと力をいれる。
彼女の足には鎖がつながれていた。川に落ちた馬車と一緒に引き込まれたのは確実だ。その鎖を付けるよう命じたのは、孟徳自身だった。
悔やんでも悔やみきれない。連れてくるのではなかった。護衛をつけて都に置いてくるべきだった。いや、それも心配だ。そもそも花を自由にさせなければよかったのだ。そうしたらあの孤児の兄弟とも知り合わなかっただろうし家庭教師の女性とも出会わなかった。孟徳の力を削ごうとする勢力に利用されることもなかった。部屋に閉じ込め、会いに来るのは孟徳だけにしておけば……
孟徳は両手で髪を強く握る。
やはり鶴をとどめておくのは無理だったのだろうか。
空に帰るべきだったのか?異なる世界に住む者同士の縁を、無理やり結んでもいつか不幸になるのか。一瞬運命が交わった愛しい珠を、掌中に握りこんでしまうのではなく空に放つべきだったのか。
「……否」
孟徳は歯を食いしばりながら絞りだす。あの珠は…あの珠はもう孟徳の中の大事な一部で手放すことは我が身を切り刻むことと同義なのだ。
必ず幸せにすると、幸せにできると思っていたし今も思っている。なのに今のこの状況はどうだ。天下を手に入れた丞相がたった一人の少女を幸せにできていない。

あの珠を……彼女を、どうすればよかったのかわからない。

それは立つ場所すら不安定な恐怖だった。これまでの自分も経験も知恵も何も役に立たない。冷静に優先順位を決め道を開くのが得意な孟徳には始めての経験だ。何に腹を立てるわけにもいかない。腹が立つのは自分なのだ。自分のことは信じてきた。信じるのは自分だけと誓った。
しかし今、その自分が選んだ道が最適とは思えない。それどころか最悪ではないか。

「孟徳!ここからさらに下流で女ものの絹が見つかったそうだ!」

元譲の声に孟徳は顔をあげた。視界がぐにゃりと曲がり脚がふらつくが「馬を!」鋭くそう命じると、用意された馬に飛び乗った。足場の悪い山道を飛ばす。元譲の案内で現場に着いて、兵士たちの顔色や表情を見て花ではないと孟徳はさとった。それでももしかしたらと馬を降りて、孟徳のためにあけられた人垣を進む。
水を吸い膨れ上がりあちこちおかしな形に曲がった遺体がそこにあった。
「花様の世話をしていた女官かと思われます」
「……」
孟徳は無言でその遺体を見た。戦場ではもっとひどい死体を山のように見てきた。自分が手を下したこともある。しかしこれが花だったらと思うと息ができなくなった。花ではなくて安心したのかせめて遺体だけでも見つけたいのか。
「……陣に戻る。兵士を半分にわけて牧の館を整備させろ。しばらくそこに滞在する」
たとえ自軍の兵士だろうと弱いところを見せるわけにはいかない。孟徳は平静を装いその場を後にした。
















 BACK  NEXT